たけしは映画で死ぬことで生き続ける事ができた。

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こんにちは。香川です。

で過去の記事でタモリとは瞑想の事であるにて

北野武の事を少し書きましたが

昨今の北野武の本を読みなおし

北野武の考え方などを拝見すると

北野武も瞑想的な生き方をされている方

だなあと感じる事があり

今回の記事ではわたくし香川が感じた

北野武的の瞑想的な生き方について

解説したいと思います。

 

 

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漫才ブーム終焉の後、現代のテレビ番組の原型を作ったビートたけし

わたし香川は30代半ばですが、80年代の漫才ブームは

82年にすでに終わっていたとのこと

生まれたばかりころですね。

 

1980年くらいから始まった漫才ブームにより

ビートたけしはテレビで表舞台に立つようになり

アッという間にスターになっていくのですが

漫才ブームはわずか2年ほどで終焉するのです

 

漫才ブームの終焉により表舞台から

去った芸人も多数いたようですが

 

北野武はその後ソロで活躍するようなり

現在のテレビ番組の原型と言える番組を

創り出していきます。

(「天才・たけしの元気が出るテレビ!」「風雲、たけし城」

「スポーツ大将」等)

俳優としても活躍し

映画「戦場のメリークリスマス」にも出演し

別のフィールドにて仕事の幅を広げるようになります。

 

彼はこの映画が公開された際、お忍びで

映画館この映画を見に行く自分の

顔がスクリーンに映し出される度

観客から笑い起こるのショックを受けたと

著書で述べています。

真剣に演技をしていても観客は

お笑い芸人のビートたけしとしか見られていないことに

愕然としたそうです。

 

その後彼はテレビドラマなどで

数人の実在の犯罪者を演じてお笑い芸人としての

ビートたけしのイメージを払拭しようと

必死になったそうです。

 

たけしは漫才ブームの最中も人気なんか

いつまでも続くわけがない、と

「次の一手」を常に考えていたと

いいます。

成功した自分に驕ることなく

自分を「客観的」に見つめ

自分が次に何ができるか常に探し求め

考えていたのでしょうね

 

瞑想とは「自分」を客観的に

見つめることでもあります。

たけしは自分を客観的にみつめるくせが

あったからこそ一つの場所に

安住せず次々新しい事に

挑戦しつづけていったのでしょう。

 

 

舞台の上で毒舌の話芸を披露してても冷静だった。

 

舞台に上がっても、二重人格だった。

お客がすごいウケていて、こっちも

ノリにノッテ漫才をやっているんだけど、

頭半分は殺し屋のように冷めていた。(中略)

いつも神経をピリピリと研ぎすまして、

まるで殺し屋みたいな目で客席を

見つめていなきゃいけなかった。

         北野武 「全思考」  幻冬舎

北野武は若手のころから自分を客観的にみる

くせがあったのでしょう。

舞台上で大きな笑いをとっても

決して浮き足ならず

「第三の視点」というものを

忘れずに持っていたようです。

劇場が爆笑している真ん中で、

自分だけが氷のように醒めている

あの頃は、そのギャップが妙に

快感になっていた。

         北野武 「全思考」  幻冬舎

舞台上でノリノリで芸で人々を

笑わせていても

あと一人の自分が台風の目のように

静かに冷静に

すべてを見つめていた。

 

成功への階段を駆け上っていく

最中の若手でありながら

浮き足にならず地に足をつけて

物事を冷静に見つめる事ができたのは

本当に凄い事です。

 

 

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成功とは客観的にみる事で主観的のものではない

 

成功とかそういうものは、常に客観的なことで、

主観ではないといつも思う。

観る事ができるものではなくて

いざ観られるところに

やや近づいた時には、

凄い虚無感に襲われるはずなんだ

結局なにもねえじゃねえかって。

          北野武「裸の王様」新潮社

たけしは昔、ポルシェを買って

乗って運転してもなぜか思ったより

満足感が得られない。

 

そうだ自分が運転したら

このポルシェが見えないからだと

考え、友達に自分のポルシェを運転してもらい

そのあとをたけしはタクシーに乗って追った。

タクシーの中でたけしは運転手に

「あのポルシェ、俺の何だよ、いいだろ」

「なんで自分で乗らないですか?」

「自分で運転してらポルシェが見えないだろう。」

 

上記の話はたけしが成功という虚しさを

よく表した滑稽な話ですね。

 

芸人の枠組みを超えて成功を収めた

稀有な方です。

そのたけしが成功とは満足感を

得られるものでない言うのは

重い言葉ですね。

 

社会的な成功とは客観的なもの

であるならば俗にいう

勝ち組負け組とは他人が決める事。

 

たけしが社会的の成功を収めることが

虚無感に終わるというならば

他人の目を気にして生きるという事が

虚無感に終わるということでしょう。

 

社会な成功をなどは二義的なことであって

人生の本質的なことでありません。

 

 

炎のような北野武 水のようなタモリ

 

芸人をやって、映画監督をして。ビートたけしをして

北野武でもいるという今の人生は、

本当に疲れる。(中略)

はたから見れば、

輝いている人間のことが、

きっと羨ましく見えるのだろう。

だけど、輝いている本人は

熱くてたまらないのだ。   

         北野武 「全思考」 幻冬舎

「オレ、自分で苦労したって

思ったことないよ。

やる気になって仕事したことないし

生活が変わるときって

いつも誰かが『こういう仕事

あるんだけどどう?』

って声をかけてくれたんです。

オレ、その流れに身を任せて

きただけ」

  (タモリ)  戸部田 誠 

 「タモリ学」        イースト・プレス

前回の記事、タモリとは瞑想の事である

にてタモリと北野武の死生観

について書きました。

 

北野武はイメージとしてですが

炎のように自分を燃やし続け

自分を追い込むように

芸を磨いてきたのに対し

 

タモリは川の水のように

流れに身を任せてきた

ような感じです。

タモリの芸もまわりの人間の

リクエストに応じて

出来たネタもいくつかあるそうですし

貪欲に芸を追い求めた

スタイルには見えないのです。

 

タモリは決して成功を目指してきた

わけでもなく

流れに身を任せてきた結果

多大なる成功を収めた人のような気がします。

川の水のように

どんな道もやがて大いなる大海

というゴールに

通じていることを信じて

疑わなかったのでしょう。

 

炎のような北野武

水のようなタモリ

正反対の二人ですね。

そのせいか

二人が共演した番組は

なぜかよそよそしく

見えることがあります(笑)

 

 

北野武は映画で死ぬ事で生き続ける事できた

北野武の映画は彼自身が

主演の際は大抵

ラストは死を迎えるというパターンが多いです。

彼は死をどうとらえているのでしょうか?

 

デビュー以来芸能界で多大の功績と影響を

残した北野武ですが

自分自身が成し遂げた成功に

うんざりしたこともあるでしょう。

 

週刊誌にあることない事

書きたてられ

メディアの中に膨れ上がっていく

自分の虚像にうんざりしたことも

あると思います。

 

いくら成功を収めても満足感が

を得ることもない。

 

わたしは北野武が映画で

「死ぬ」の理由は

自殺願望の現れかと思った事もありますが

それだけではない気がします。

 

北野武は映画で「死ぬことにより

過去からのリセットを計っている

にも思えます。

北野武は過去の栄光や失敗を

映画の中で「死ぬ」事によって

新たな自分に生まれ変わる意味合いを

持たせているように思えます。

 

思えば瞑想も「死」のようなものです。

瞑想とは過去を忘れることだけなく

未来をも忘れることです。

 

人が思い描く「未来」とはその人の

「過去」からの願望にすぎません。

いわば「未来」とは「過去」の

変形したものに過ぎません。

 

瞑想という「死」によって

過去でも未来でもない今を生きる事ができます。

 

睡眠だって小さな死の一部です。

睡眠によって新たな自分にリフレッシュできますよね。

 

北野武が普段の生活の中で

瞑想を意識しているかはわかりませんが

北野武がの本を拝読すると

瞑想的な生き方を実践している方

というのが今回の記事の内容でした。

 

最後に北野武の本の紹介です。

 

北野武 「全思考」 (幻冬舎)

自身の売れない若手芸人時代から

バイク事故の話まで。

北野武の人生観がわかりやすく

書かれている本です。

浅草で売れない時代を共に

過ごした綾小路きみまろが

50を過ぎてブレイクを果たしたのを

北野武がすごく喜んでいた話が

一番印象的でした。

 

「さみしさの研究」北野武 (小学館文庫)

北野武のエッセイ集的の本で

最新本ですね。

老いを迎えた人間に対して

自分自身を客観的にみて

生きる方法などを書かれています。

個人的には北野武の死生観を

語られるところが

一番読み応えがありました。

 

 

今回も最後まで読んでくれてありがとうございました!