タモリさんは引きずらないんですよ。
びっくりするくらいに引きずらない。
これは引きずるやろーという所も、
引きずらない所がすごいんですよ。
明石家さんま
こんにちは。香川です。
タモリとは瞑想そのもの生き方をしている人である。
そのような考えを数年前から自分は持っていたのですが
「笑っていいとも」の終了前後から
タモリの関連本が続々の発刊されるようになり、
タモリの謎多き実像に迫る事ができました。
今回の記事ではわたし香川から観た
タモリさんの瞑想的生き方について
解説しようと思います。
言葉が現実を見えなくしている
「ものを知るには、言葉でしかないということを
何とか打破せんといかん
と使命に燃えてましてね」
引用 「タモリ学」 著者 戸部田誠 (てれびのスキマ)
上記はタモリ関連本のからの本からの引用でタモリ自身の言葉ですが、
タモリの芸というのはナンセンスの言葉の遊びの芸が多いです。
言葉より本来の意味を取り払いその言葉達と戯れるような芸。
デタラメな外国語による4カ国麻雀やハナモゲラ語など
(若い人は知らないでしょうね、30代の自分も
リアルタイムで見たことありません)
現在、「タモリ倶楽部」で放送されているコーナー
「空耳アワー」もそのようなものですね。
「何かものを見て、言葉にした時には
もう知りたいものから離れている」
「いま現実そのものに何の意味をなくなり
言葉だけが意味をもつかのごとく祭り
あげたれている」
引用 「タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か? 」
著者 戸部田誠 (てれびのスキマ)
上記もタモリ自身の言葉ですが、これはたとえば
愛を言葉を口にした場合、その言葉だけが
一人歩きしてしまい実際の愛そのものが、
取り残されてしまっている、
という事を言いたいのでしょう。
言葉とは言葉の意味だけでなくその人の過去の
経験による印象が入り混じっています。
例えば「天国」という言葉
にしても人によって思い浮かべるのは様々です。
人によっては暖かいところを思い浮かべる人もいれば
涼しいところを思い浮かべる人もいます。
一つの言葉でも意味は同じのはずですが
受け止める印象は人によって
微妙に違います。
言葉にはその人の願望や偏見、過去や生活環境
が付きまとい、それが膜のようになってしまい
現実を見えなくしている場合があるのです。
おそらくタモリは「言葉」という「過去」に
不自由になっているのが嫌ったのでしょう。
タモリの芸でナンセンスの言葉遊びの芸が多いのも
言葉の重みを深刻に生きている現代人に対して
どんな言葉すべて受け入れて
楽しんでしまおうとする意図が垣間見えます。
タモリは大学在学中に哲学で学んだ事があるそうで、
その時哲学の中の言葉の不毛さにうんざりしていたのかもしれません。
タモリがナンセンスな言葉をよく芸として用いていたのは
言葉の意味を壊すというより
言葉という過去の囚われを壊し
「今」を楽しもうとしていたように思えます。
「今」を生きるとは瞑想の境地ですね。
若者よ、実存のゼロ地点に立て
1992年の4月に「講演大王」という番組が放送されました。
30分という時間の中でノーカットで自分の語りたいテーマで講演を行うという番組で、
第一回のゲストがタモリだったのですが
「わたしが各種行事に反対している理由とソ連邦崩壊の関連性」というテーマでした。
この講演の中で最初にタモリは「自分とは何か」
という事を考えて欲しい、
と視聴者に問いかけます。
人はあやふやなもの中で
自分を規定しているといいます。
たとえば自分の会社の肩書きはどうだとか
自分が妻と子どもがいるだとか
友達は何人いるだとか、
家の生まれがどうだとか・・・。
つまり人間は自分以外のもので自分を規定しているのです。
こういう自分の規定の仕方は「差別」にも
つながるとタモリは言います。
例えば自分より収入の低い人や学歴の差を比較して
「自分はあれでない」という風に人を見下すという傾向を生むとの事です。
人間とは他の生き物より不安の生き物であり
絶対的な自分を何かと知らないに人間は
己の社会的地位や人間関係にアイデンティティーを求める
傾向にあります。
これらはしがらみであり、あやふやのものであるとタモリはいいます、
いつ会社が倒産するかわからない、いつ妻から離婚されるかわからない、
友達もいつ去るかわからない。
極めつけは当時誰も予想しえなかったソ連の崩壊です。
一番強固の国の一つと思われたソ連が崩壊してしまった。
国家というしがらみも安全ではない。
その上タモリは人間は不自由になりたがっているといいます。
自分の尊厳というべき自由を他人に組織に預けてしまうのですから。
こうしたしがらみにまみれている自分を取り払ってしまおう、タモリは言うのです
こうした社会的地位等をすべてを取り払った姿を
タモリは便宜上実存のゼロ地点と名付けます。
この境地を禅の世界に似ているとタモリは言います。
自分の内側にある絶対的な自分。
これを身を持って体験している人間は腹の据わりが違うとタモリはいいます。
まさにこれこそ瞑想の境地といえるでしょう。
タモリが反対している各種行事とは主に
クリスマスとかバレンタインの事を指しているようです。
若者である18~22歳の若者は一番しがらみから自由な時期です。
その時期にしがらみを強化するようなクリスマスのようなイベントに興じていて良いの
か?
実存のゼロ地点、つまり自分自身を探求しなくて良いのか?と
自分自身を探求するなら瞑想が一番手っ取り早いと思います。
北野武とタモリ。生と死
出典:amazon
タモリと同じくビッグ3と称される北野武ですが
彼は芸人の域にとどまらない破格的な成功を収めています、
芸人としてトップに上りつめその後映画監督として名声が
海外まで及んでいます。
その一方で彼は死に対して憧憬を抱いているような気がします。
たとえばあのバイク事故も自殺であったと言われていますし
本人が後年当時鬱状態であったと明かしています。
彼が自分の監督作品で主演を務める際、
ストーリーの中で自分なりの筋を通し最後は死を迎えるとパターンが多いです。
「その男、凶暴につき」「ソナチネ」「HANABI」「アウトレイジ最終章」など。(ど
れもほとんど自殺です)
彼はおそらく全く満たされてはいないのかもしれません。
どんなにすごい地位や名誉も富も女も手に入れても…。
彼の自著にて自らの成功の虚無感について語っているのを
読んだことがあります。
何をしても何処に行っても北野武は満たされない。
もう自分を満たしてくれるのは死しかない。
死に対して大いなる憧れを抱いているように思えます。
タモリは赤塚不二夫に対するあの有名な弔辞の中でこう語りかけています。
「あなたにとって死も一つのギャグなのかもしれません」と。
タモリ死もギャグのようであるならば生もギャグであるのであろうと
、悟っているのでしょうか。
タモリにとって生も死も一つのしらがみであり 生と同じように
死をも淡々と受け入れるでしょう。
北野武が死に急いで必死に何かを手に入れようと
もがいている印象があるのに比べ
タモリはすべてを受け入れるというような達観的な所があります。
タモリのように過去も未来もなく
実存のゼロ地点に生き
「今」を生きている人間には
生も死も等しく受け入れることができるのかもれしれません。
タモリはこの世の中の究極の二元性である生と死を超えた瞑想
という地点でお笑いをやっている
そんな気がしてなりません。
今日も最後まで読んでくれてありがとうございました。
時間を引きずって人は生きている。
タモリ
引用、参考文献
「タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?」
著者 著者 戸部田誠 (てれびのスキマ)
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