こんにちは。香川です。
マインドフルネスやヴィパサナーなどで
瞑想を頑張っている人も
少なからずいるでしょうが
「瞑想で無心になれない!」
という人も多いのではないでしょうか?
そもそも「無心」という状態は具体的にどのような
状態を指すのでしょうか?
結論からいうと「あなた」というエゴがいない
状態です。
無心という状態を一度経験しておくと
あらゆる人や思想を受け入れやすくなり
一つの考えに凝り固まることもなくなります。
今回の記事では最短で瞑想で
無心の状態を目指す方法にて
紹介しようと思います、
わたしは瞑想をはじめたのは2005年の頃。
まだマインドフルネスという言葉がなかった頃で
瞑想をはじめて今年で15年目です。
この記事では自分の経験にも
基づいています。
瞑想で無心になるにはまず心と身体を騒がしくする
瞑想で無心の状態を目指すには
まず最初にやるべき事は心と身体を騒がしくすることです。
こころや身体をできる限り緊張させることで
その反動でリラックス状態がつくりやすくなるのです。
無心という状態について理解すべき点が二つあります。
1.無心と睡眠には共通点がある
瞑想状態、つまり無心とは
人間自身がつくりだせないものなんです。
つまり睡眠と無心はちょっと
共通点があります。
「今から10秒後に寝てください」
と言われてもほとんど人ができないですよね。
睡眠というの自分の意識的にやるものではなくて
ついに眠気が襲ってきて寝てしまう
みたいな、睡眠が人に訪れるというような
感じであります。
夜気持ちよく寝るには
日中精一杯働いて身体を疲れさせ
夜は気持ちよく寝る事はできますよね。
無心の状態もそれに似ています。
無心も人の意識的に行えることではないのです。
無心の状態を正確にいうならば
「無心のほうが人の意識上に訪れる」
と言えます。
人の心とは性質上静かにはなれないのです、
ここで言う心とは
ハート(フィーリング)というより
マインド(思考状態)
の事ですが
人は通常はハートよりもマインドのほうが
活発の状態にあります。
人のマインドは騒がしく言葉の
ラッシュアワーというのが
通常の状態といえるでしょう。
瞑想のときに無心になろうとして
マインド自身が静かにさせようとすると
「無心にならなければならない」
なんて考えを抱くとそれ自体が
雑念となってしまい
余計マインド自体が騒乱状態になってしまいます。
なので無理にマインドを押さえつけよう
するのでなく
思いっきり心や身体を動かして
押さえつけていた感情を
解放することです。
マインドを疲れさせることで瞑想状態に
つまり無心の状態に入りやすくなるのです。
それでは具体的にどのような事を
行えばよいのでしょうか?
2.「あなた」というエゴが無心になることはできない
無心になるための最大の障害は
あなたというエゴです。
エゴが自体が
瞑想状態である無心に至ることはできないのです。
エゴというのは実態のないもので
あなた自身の過去の残りカスみたいなものです。
子どもから両親や学校の先生や周り人から
言われてきた事で作り上げていきた
思考の集積体みたいなのものです。
エゴというのは社会で生きる上で
有益なものですが
過去の残骸であるエゴが
新しい未来の展望を描いたとしても
それらはやはり惨めな過去の
焼き直しにすぎないのです。
エゴは社会で生きるうえで有益のツールですが
過去のトラウマや消化しきれない欲望や
怒りや憎しみなどの心理的な記憶も
背負っています。
瞑想を行うためにはこれらを浄化しなければ
なりません。
エゴはあくまでもツールであり人間の主体に
なるべきものではありません。
エゴという存在自体が無心という状態に至ることは
決してありません。
人は皆主体たる己自身を忘れて生きているのです。
それは本来の自分というべき
無心と呼ばれる状態の事です。
人間は何でも知っているが自分が何者であるか知らない。
瞑想を実践し無心になるという事は
どういう状態かというと
「本来の自分を知る」という事です。
無心とは人間の本来の姿なのです。
本来の自分というのは
言葉や思想やアイデンティティ-
国籍や宗教のことではありません。
それらはエゴに属するものです
わたしたちは子どもの頃から
家庭では両親から
社会に出て学校や会社から
色んな事を学びますが自分が
肝心である己自身の事を何者であるかを知りません。
社会の中にある学校について、会社について、
勉強について、スポーツについて、友達について
人が一生に学ぶのは自分以外の
「~について」であり
人は何かの専門家になる事はできても
自分に対しては全くの無知なのです。
これを読んだ方で
自分がどういう人間であるか知っているし
自分のことなら何でもを知っている、
という人がいるでしょう。
確かに人は誰でもや思想、宗教、哲学を持っていますが
それらは表面的なことであり
生まれ育った社会からに
植えつけられたものに過ぎません。
わたしたちは「自分」に対して
圧倒的に無知なのです。
「本来の自分」を知る為には
特定な宗教の教義や
哲学や思想や言葉は要りません。
瞑想の沈黙という無心の状態になれば
己を知ることになります。
哲学や思想やイデオロギーなどは
ツールであり人の本質ではありません。
無心という状態は言葉を通じて理解する
のではありません。
生まれながらに人間に備わっているものです。
人の本質となるとなるものは
無心という瞑想の状態であって、
言葉や哲学はツールにすぎないのです。
瞑想を知らない人間は
本来の自分を眠らせて生きているのです。
無心の状態ならすべてを受け入れることができる
無心の状態ならすべての人を受け入れるのが
容易になっていきます。
思想や哲学などに
アイデンティティーを持たず
真の自分を知っているからです。
無心の状態、本来の自分というのを説明する
のは難しいですが、
自分という境界から薄れ
自然と一体のなった感覚に
という感じがします。
物事を第3の地点という
俯瞰的な立場で観られる事が
多くなります。
他人を裁いたり
自分を責めたりするのが
少なくなっていきます.
無心とは超人的な状態ではなく
本来の人のあるべき姿という事です。
無心とは人間の本来のあるべき姿なのです。
それでは今日も最後まで読んでくれて
ありがとうございました。
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