瞑想的な死は癒しである。

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こんにちは。香川です

今回は死についてお話したいと思います。

もちろんわたしは死んでいません。(笑)

だから死んだあと人が

どうなるかなど解りません。

 

死んだ人の霊が見える事もありません。

そんな非現実的なことを求めなくても

死の要素は人の生活の身近に

たくさんあります。

人は生を意識するあまり

死に目を背けて生きています。

もしかしたら人の生活の諸問題は

死を受け入れていないことからの

発端かもしれないのです

 

 

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 人の生活は生と死のリズムの繰り返しである。

人は呼吸をしないと

生きていけません。

呼吸とは吸う事と吐くこと。

ただしどちらか一方だけを選ぶことは

できません。

吸う事ばかりはできませんし

吐くことばかりもできない。

 

吸う事は小さな「生」の要素であり、

吐くことは「死」の要素です。

人間が本当に生涯を終える時は

呼吸は吐くことを最後に死を迎えます。

 

亡くなる直前人は呼吸が肩呼吸と

言われる荒い状態がありますが

ろうそくの炎が燃え尽きる際

一瞬炎が高く上がりますよね。

人の亡くなる前の荒い呼吸は

燃え尽きる際のろうそくの炎に

似ています。

呼吸は生と死の象徴なのです。

 

人は生まれたときから

死に向かっています。

どんなに健康な人でも

死ななかった人はいません。

人間も動物も生と死は切り離せない

ものなのです。

 

 

睡眠の夢は消化不良の願望

 

寝ている最中は

人は意識がありませんが

寝ている最中に夢を

みることがあります。

 

夢は生きている際に

満たさなかった願望の表れと

言われています。

 

例えば絶対に叶える事のない願望、

友達の彼女に手を出したいとか

理不尽な上司に怒りを覚え

殴りたかったのに殴れないとか

現代人は満たされない感情を無意識に

放り込みます。

それらは当の本人で

さえ気づいていないほどです。

夢の中に社会的倫理、規範もありません。

だから夢の中の自分は

まさに正直な自分なのです。

 

消化不良の思いをいつまでも

抱え込むのは人はストレスでもあるので

夢のという形で何とか

満たされない願望を

消化しようとします。

 

過去の自分と決別できないため

人は夢を見るわけです。

 

過去の自分に対して

「死ぬ」事ができれば

こうした夢を見ることは

なくなるはずです。

 

睡眠中の夢とは欲望の残骸なのです。

 

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 死は常にタブーとされてきた

人が亡くなったら葬儀の際

死に化粧をして故人を

送りだすのは

残されているわたし達が

自らの「死」から目を背けたいという

心理もあるからです。

 

日本では死を連想する4という数字を

避けるようになっていますし

死は忌み嫌われています。

 

人は生にばかり目を向け

死からは目を背けてきました。

それは生の在り方の一面しか見てない

ことですごく不自然なことです。

死がなかったら生も存在しないのです。

 

 

 

瞑想的な死は癒しである

人は過去を憂い

未来に希望を託して

に生きていて

「今」を生きる事はありません。

人はいつも過去を

引きずって生きています。

過去に対して「死ぬ」ことが

できればいつでも

新しい人間として生きる事ができます。

 

一日、一日を決して引きずることなく

瞑想的に「死ぬ」事ができれば

過去や未来に生きる事無く

「今」を生きる事ができます。

 

睡眠は肉体の小さな「死」でありますが

瞑想は心の小さな「死」です。

 

人は「死」によって新たに生まれ変わる

事ができるのです。

 

瞑想とは死と生のエッセンスを含んでいると思います。

 

過去の自分が死にありのままの自分に気づくとき

それは瞑想と呼ばれる状態になります。

 

瞑想とは新たな自分を

見出すことというより

ありのままの自分に気づくことです。

 

陰と陽があるように

光があるところには必ず影があります。

しかし影の部分も人生には必要なのです。

 

人の死とは訪れるものです。

新しい物事が始めるにはな

古いものは去らなくてはなりません。

 

死は敵ではありません。

死を友としてみる事ができれば

瞑想の状態に入っていくことができると思います。

 

瞑想的な死は癒しなのです。

 

今回も最後まで読んでくれてありがとうございました。