瞑想を実践しても何の体験も得られないあなたへ

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こんにちは。香川です。

瞑想をしている中で

皆さんはどんな体験をしたことが

ありますか?

 

不思議な体験をしたという人も

いるでしょうが

 

全く何の体験をも得られないという方も

多いと思います。

瞑想をしても幸せみたいなことを得られないなら、

瞑想なんか行う意味もない、と思うのも

無理もないですよね。

 

わたしは瞑想は幸せになるために

行うものではないと

考えております。

 

皆さんが幸せを求めて瞑想を実践し続けても

失望の日々が続くと思います。

 

今回の記事では瞑想を実践することの

本質的な意義を解説したいと思います。

瞑想を実践しても何の体験も

得られないと悩んでる人に

最適な記事と思います。

 

わたし香川は2005年の23才の頃から

瞑想を続けて今年で15年目になります。

これまで色んな国籍な人や年齢の人や

共に瞑想を学んできました

今回の記事は自分の体験にも基づいています。

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瞑想を実践する本質的な意義を理解できていない。

瞑想の体験を得られないという人の主な問題は

瞑想の本質的な意義を

誤解しているように思えます。

 

今瞑想がちょっとしたブームみたいになっていますね。

瞑想するの色んなメリットがあると

 

例えば集中力が上がる

リラックスができる

多幸感が得られる

オーラが見えるなど

(ちなみにわたしはオーラは見ることができませんが)

 

瞑想もメリットとして上記の事が

或るのもわたしは否定はしませんが

これらは副産物であり

瞑想の本質的なことではないと

わたしは考えております。

 

これらの副産物を期待して

瞑想を実践すると

欲求不満に終わることは

避けられません。

 

わたしが考えるに世間一般の人には

以下のような瞑想に対する二つの誤解があると思います。

 

 

1.瞑想をアルコールやドラッグのように考えている

瞑想とは観照(かんしょう)することです。

すべてを観察することで

自分の外側で起こる出来事

内側の意識上で起こる出来事、

これらすべてを観察する地点を

一点を養うことです。

 

瞑想をすることで

集中力を得られる

リラックスができる

多幸感が得られる…

これらの事を期待して

瞑想を行う人は

瞑想を万能のドラッグや

アルコールと同じように扱っているのと

同じです。

 

確かに瞑想には上記のような

有益な効果が得られるのは事実ですが

これらはあくまでも副産物です。

 

 

2.瞑想によって自分の理想を叶えることができる

瞑想によって自分が思い描くような

理想の自分になれる事はないでしょう。

例え自分の思い描く社会的成功を

手に入れた事が出来たとしても

おそらくそれに満足することはないと思います。

昨今のちょっとした瞑想ブームで

スティーブ・ジョブズなどの

成功者が瞑想を行っていたので

瞑想を成功するための

ツールとして用いる人も多いでしょうが

惨めで不幸で愚かなわたし達が

思い描いた夢が叶ったとしても

その夢はわたし達と同じくらい

愚かなもののはずです。

 

子ども頃どうしても手に入れたいものがあって

やっとの思いで手に入ったとしても

思い描いたほどの

満足感を得られることはなかったという事は

誰でも経験したことはあるでしょう。

わたし達はいつも成功の蜃気楼というべきものを

理想として見ているのです。

 

「成功程の失敗はない」と老子は

語ったそうです。

社会的な成功を収めた人ほど

成功と同等の失敗をこうむる

事になるという意味でしょうね。

社会的に成功を収めた人が

瞑想を習慣にしているのは事実みたいですが

瞑想は社会で成功するためのツールではありません。

 

瞑想はあらゆる二元性を受け入れる事ができる

瞑想とは幸せになるためにやるものではなく

社会的な成功を目指して行うものでない。

それでは何のために瞑想を行うのでしょうか?

 

瞑想とはあらゆる二元性を受け入れるために行うものです。

人はこの世に生きている限り

二元性に振りまわされる事に

避ける事はできません。

 

愛と憎しみ、

喜びと悲しみ、

成功や失敗、

快楽と苦痛

 

例えば人は愛にすがろうとすると

時に憎しみに打ちひしがれる事に

なることがあります。

自分の深く愛した人から

裏切られたとき

反動で激しい憎しみを

覚えてしまいます。

人は喜びの機会が大きければ

大きいほど深い哀しみに陥ることがあるのです。

 

瞑想これらの二元性ではない

「第3の地点」というべき無心という

新たな地点をいざなう事ができます。

 

これが無心というのか

仏教的な言葉で言うならば空の世界というべきか

二元性ではない地点。

すべてを受け入れる地点です。

これがいわゆる「悟り」という世界でしょうか?

 

もちろんわたし香川は

自分自身の事を悟っていると言うつもり

ありませんが(笑)

 

瞑想のなかで「無心」というか

仏教でいう「空」の世界という

一瞥は何度も体験したことがあります。

これらのことを言語化するのは非常難しいことですが

無心はイデオロギーや思想や哲学とは

全く別の類のものです。

言葉で説明することはできません。

瞑想にあける真の体験は言葉を超えたものです。

 

瞑想の体験の「無心」は数十分の瞑想の時間だけで味わう

ものではなく日常生活で生かしていかなければ

意味がありません。

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日常生活を無心という地点から味わっていく

人は日常生活で二元性の中で生活しています。

愛と憎しみ、

喜びと悲しみ、

成功や失敗、

快楽と苦痛、

これらを瞑想の体験で得た「無心」という

第3の地点からを見つめる事ができたならば

ならば物事を新たな地点見つめる事ができます。

もちろん日常生活をずっとを無心の状態で

過ごすわけにもいかないですが

無心の一瞥を瞑想に体験することによって

日常でのこれらの二元性に巻き込まれる事が

少なくなっていきます。

 

そうなると二元性のどちらかを選び

執着することがなくなっていきます、

例えば世の中,

成功がすべてみたいなところが

ありますが人は失敗から学ぶ事が多いでしょう?

 

人は喜びだけの人生が生きたいものですが

喜びは少し浅はかです。

哀しみはある種の美しさがありますし

大切な事を氣づかせてくれる

大切な感情です。

 

瞑想とは

リラックスするための

アルコールのようなものではなく

超常体験を味わうための

万能のドラッグではなく

日常の物事を無心と第三の地点から

観照するためものです。

 

瞑想を励んでいる皆さんも超常体験を味わえないから

と言って瞑想をあきらめる事無く

コツコツと瞑想に励んで行ってください.

 

 

それでは今日も最後まで読んでくれてありがとうございました。