瞑想の危険性について。~安全に瞑想を実践する為に~

Pocket

こんにちは。香川です。

ネットにて瞑想について検索してみると

瞑想について瞑想は危険、とか瞑想で魔境に堕ちる

とか言葉に出くわす事があります。

わたしも瞑想は危険性があると思います。

ここではわたしなりに感じてきた瞑想の危険性について書きたいと思います。

スポンサーリンク
   
 

 

「魔境」とは自分が創り出したもの

瞑想中に陥る魔境というのがあるのならそれは自分が創り出したものでしょう。

 

正確にいうなら自分が抑圧してきた感情が無意識において積み重なってできたもの言えます。

一番最初の記事 笑いから始める簡単な瞑想のやり方にて人の意識は氷山の一角であり

無意識(意識を顕在意識、無意識を潜在意識と言い換えてもいいでしょう)

は意識をの数倍の領域で怒りや悲しみ、欲求不満、コンプレックス、等が眠っている事を

延べました。

 

これらを人は無意識の中に押し込んでいますが、臭い物に蓋をしても少しずつ 

意識上に抑圧した感情が上ってきます。 

これらがストレスと言われるものであり瞑想的に生きるすなわち

「今」を生きるという事の妨げになっていると思います。

 

 

 誰もいない部屋で自分と向き合えば人は発狂する。

人を確実に発狂させる方法というのがあります。

それは1か月間誰もいない何もない部屋に誰とも話せず何もする事がなかったら、

人間は確実には発狂するとの事です。

 

(もちろんごはんを食べるなど生きていく上で

最低限の生活が保障

されていてもです)

数日で独り言が始まり叫びだすようになり精神が崩壊していく…。

これは嫌でも自分が抑圧した感情と

向き合わなければいけないからでしょう。

これまでの人生で抑圧した怒りや悲しみ、

欲求不満などは決して無くなる事はありません

現代人がストレスがありながらも

何とか正気を保っていられるのは

自分自身か逃れるものがたくさんあるからでしょう。

 

仕事、テレビ、お酒、漫画、テレビゲーム、スマホ、SNS、

これらはもちろん素晴らしく有益なものですが

人間がこれらに依存せずには生きていけないというのは

まさに自分自身からの逃避になっているという感じは否めません。

スポンサーリンク

座禅やマインドフルネスは初心者に危険。

抑圧した感情を抱えたまま現代人がまともに瞑想に入っていけば

もろにそれらと向き合う事になります。

だから瞑想の初心者は座禅や

マインドフルネスは危険だとわたしは感じます。

まずは瞑想に入る前にまずはカタルシス(浄化)の過程が絶対必要でしょう。

 

 

笑いから始める簡単な瞑想のやり方を参照)

いやいや、ブッタの時代からヴィパッサナー

瞑想法等静かな瞑想法があったでは

ないか?いう反論もあるでしょうが、

それはあの時代と現代の時代性は違います。

ブッタの時代は現代ように情報過多で

抑圧されたストレス社会ではなく

比較的穏やかの時代だったようです。

人間の心理状態に合った瞑想法が必要なのです。

 

現代人がカタルシス(浄化)の過程を通らずに

瞑想に入ると人は無意識の抑圧した

感情と向き合い発狂する可能性は十分にあります。

これが一つ目の瞑想の危険性です。

 

アイデンティティーを自分の内側に求める。

カタルシス(浄化)の過程を通って

真に瞑想の道に進む事になれば

自分の内側の声(ハート)に従って生きる事になります。

 

自分のハート従わない人間は

自分のアイデンティティーを自分の外側に

社会的地位に仕事に学歴に

家族に自分のお金に求めるようになります。

それは強固なものであるように思えますが

必ずしもそうではありません。

 

 

日本では離婚も会社の倒産も珍しい事ではありませんし

お金持ちの人が自己破産するのよく聞く話です。

中には日本人である事を誇りに生きている人もいるかもしれません。

それは立派なことであるかもしれませんが

日本という国家の枠組みさえも

永遠のものではありません。

かつてもっとも強固の国の一つであったソ連は崩壊しました。

 

もちろん瞑想しているからってブッタのように

家庭や社会的地位や富などそれらをすべて放棄して

物乞いになる必要はありません。

 

自分に与えられた仕事や家庭環境、

国籍などを背負っていても

外側にあるそれらに自分のアイデンティティー

を求めてはいけません。

 

真のアイデンティティーは自分の内側の意識にあるのです。

 

真に瞑想している人間の生活は車輪に

例える事ができます。

車輪が廻る為には中央に全く動かない一点がありますよね。

車輪の外側には 世俗的な仕事、家庭、国民の義務を果たす、

というがあるとして

あくまで自分のアイデンティティーは車輪中央にある

不動の一点に気づいている事です。

これが瞑想という境地でもあります。

 

そういう人間は外側の物事にしがみつく事がない

という意味で危険だと言えます、

瞑想的に生きるというのはそういう意味で

危険に生きるという事になります。

 

 

自分の内側にあるアイデンティティーは永遠です。

 

 

マインドフルネスについては下記の記事にも詳しく述べているので

良かったら読んでみてください。

マインドフルネスと瞑想の違いについて。~マインドフルネスの弊害~

 

 

今回も最後まで読んで頂いてありがとうございました!